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黒いファラオ その1
シャーといえばイラン、ファラオといえばエジプト、時代が過ぎてカエサル・アウグストスといえばローマ。そのエジプトに、黒いファラオがいたというお話を、ナショナル・ジオグラフィック2008年2月号、P41-65から紹介しましょう。丸々の引用ではなく、私が自分で理解しやすいように「再構成」して、主観も盛り込んでいます。

時は紀元前730年、エジプトでは大ピラミッド群を建設した偉大な文明は往時のの輝きを失い、小国が割拠していた混乱の頃であった。

エジプトは細長い国で、ナイル川沿いに緑がへばりつく国である。河口のデルタ地帯は大きいが、川に沿って繁栄している国である。ヌビアの統治者「ピイ」は、ナイル川沿いにエジプトへ攻め下った。1年の戦いののち、ナイル川デルタ地帯まで手中にした。ヌビアとは、現在のスーダンに当たる国である。現在は貧困の国であるが、遅くともエジプト第1王朝時代より、2500年も栄えた。

「ピイ」についての詳細は分からない。エジプト攻略後、すぐにヌビアに戻り、彼自身は二度と戻ることが無かったという。石碑ははあっても「ピイ」の部分は削り取られている。分かっているのは、エジプト第25代王朝の初代王であり、肌が黒かったことである。王朝は70年続いた。

「ピイ」は、歴代のファラオが行ってきた宗教的儀式の正当な継承者を自認していたという。侵攻の15年後、彼は死去しエジプト式ピラミッドに埋葬されたという。ピラミッド埋葬は500年前より廃れて居たという。(ピラミッドは王墓ではないという説はさておいて)

では、なぜヌビアの王が正当な継承者を自認していたのだろう。歴史をさかのぼる必要がある。強大な王国ヌビアは紀元前1785年頃、エジプト中王国が衰退したころに興隆した。それはエジプトの影響のない独自な建築様式と埋葬の習慣を持つ王国であった。しかし、エジプト第18王朝期(BC1539-BC1292)、ヌビアはエジプトに支配された。アメン神を崇め、エジプトの言葉を話し、埋葬方式を取り入れた。ヌビア砂漠には、エジプトよりも多数のピラミッド群が残っている。クシュといわれる古代文明の遺跡群である。

紀元前8世紀、エジプトは小国に分裂し、北部はリビア人たちに支配された。ファラオの伝統は廃れ、アメン神崇拝の神権政治の色合いは薄れた。一方、南の地のヌビア人はそれに影響されることなく、エジプト人よりもエジプト人であり続け、ついには正統的継承者を自認する「ピイ」が攻め下り、エジプトの精神を復興することになった。

「アフリカの歴史はエジプトにしかない」と言われていたのは、欧州人の無知、エジプト文明崇拝とアフリカ文明蔑視のせいだろう。しかし、アスワン・ハイ・ダム建設で水没する遺跡が注目され、世界の耳目が集まった。現在、今度はスーダン政府によりメロウェ・ダムの建設が進めらており、長さ170キロの人工湖の下に、何千という未発掘の遺跡が水没するといわれている。

エジプトとヌビアの関係は、黄河文明以前に長江文明があったという事を思い出させてくれた。

ここで、黒いファラオであるが、当時、人種差別はなかったということである。肌の色が問題にされた形跡はなく、人種差別が始まったのは19世紀に欧州列強がアフリカ植民地化してからであった。

ファラオと聞いた瞬間、あなたはどのファラオを思い出しましたか。ツタンカーメンですか、ユル・ブリンナーが演じたモーゼを追い出すファラオですか。それともクレオパトラ?黒人によるエジプト王朝というのは、ちょっと意外なことであったかもしれない。


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