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神のいる場所
曽野綾子さんの産経新聞記事が素敵でした。「小さな親切、大きなお世話」というコラムですが、一面の左側に掲載されているものです。カトリックな彼女ですが、何か日本的な、神は普遍的に存在するというのは良いのでしょうか。そういう意味でも、日本人ですね。・・これ以上コメントしません。読んでいただければ素晴らしさは伝わると思います。・・それでも私はキリスト教徒にはなりませんけれどね。

ネットで拾えなかったので、自分で打ち込みました。誤字、脱字は私の責任。縦書きのものを横書きにして申し訳ありません。・・お気に入りになりましたら、駅に行って産経新聞をお買い求めください。購読料ですよ。本屋に行って曽野綾子さんの本を一冊お買い求めください。

神のいる場所
-- (引用開始)(産経新聞 2009-07-24) --
「財界」という雑誌に倉本聰氏が連載している、「富良野風話」を私はいつも愛読している。そこに今回は「愛の蓄え」という題で、氏が女性たちの集まりで講和をしたときの話がでていた。
氏が、子供のためなら死ねると思う人は手を挙げて、と言うと、六十数人いた女性たちの中で挙手をした人はたったの6人。それではお孫さんのためなら、と質問を変えると、結局3人だった。親のためや夫のためなら、ほとんど死ぬ人はいないのだろうと氏は察する。
氏のエッセーの中にさらに登場するのは、1組の老夫婦。認知症の太った老妻を介護するのは心肺に持病のある痩せ細った夫だ。認知症がひどいと個室に入れなければならないので、施設は高くつく。安い施設は数百人が入所待ちをしている。だから老夫は家庭で、老妻を看病するしか方法は無い。
中年の息子が思わず「そこに愛があるの?」と父に聞くと「今までにたくさん愛を貯金してきたから、今はそれを切り崩して生きている」と老いた父は答える。
氏は淡々と、かつて自分も長く病んだ母に対しての愛の蓄えを失ったまま死なせたことを書いている。同じ悔悟の思いを持つ人は多いだろう。
「その人のために死ねるか」ということは、愛の本質を見極めるひとつの踏み絵だと私は過去にも思ってきたし、今でもそう思っている。私が「誰のために愛するか」というエッセーを書いたのは1970年。もう40年近くも前のことだ。しかしその間に私は答えを変質させることが出来た。
愛は「好きである」と言う素朴な感情とほとんど無関係と言う厳しさを知ったからである。キリスト教における愛というものは、むしろ自分の感情とは無関係に、人間としてなすべき態度を示すことだ、とされている。つまりその人を好きであろうがなかろうが、その人のためになることを理性ですることなのだ、と私は知ったのである。
私たちは子供のときから、裏表のある態度を戒められるが、キリスト教は、むしろ裏表を厳しく要求しているように見える。心の中は憎しみで煮えくり返っていても致し方ない。そのときでも、柔和に、しかも相手のためを思う理性を失わないことだ、というのだ。
「好きである」愛を、聖書世界は「フィリア」というギリシャ語で表している。一方、敵を愛し、友のために命を捨てることを自分に命じる「理性を必要とする」愛と区別する。つまりキリスト教では「理性を伴う必要な愛」だけが唯一の本物の愛として認識されるから、親子、夫婦の間で自然に起こる感覚的好意や敬意や慕わしさが消えた段階から発生する義務的労(いわたり)や優しさや哀しさこそ、本当の間と評価するのである。
神はどこにいるのか、と私たちは子供のときから不思議に思う。青い天の彼方か、それとも人間の心臓の中か。しかしそのどれでもなく、神は、今私たちが相対峙している他者の中にいる、という。もちろん認知症のどうしようもない老人の中にもいるのだ。こうした神学的解釈など、当世風の思想では流行遅れとして笑い飛ばすのが知的らしいのだが、小説家としての私は、いまだにどんな相手の中にも神がいるとする方が、人生は劇的になり小説も作りやすいのである。
-- (引用終了) --


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