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東京新聞が朝日新聞を痛烈批判
東京新聞、こんな記事を載せてしまって。朝日の強烈なキャンペーンですよ。

祖国に戻るのは当然でしょう。二十一世紀まで居残って、強制的につれてこられたといい続けているほうがおかしいのではないでしょうか。在日朝鮮人は、すぐにでもお帰りくださいというのが当然。

これが日本政府批判に回ってくるのですね。訴えられているのは朝鮮総連ですからね。自虐世界市民がまた何を言い出すのか、うんざりですね。

脱北女性が問う帰還事業の責任
-- (引用開始)(2ちゃん経由、東京新聞) --
 「飢饉(ききん)に洗脳教育、そして差別に拷問。どこが『地上の楽園』だ。楽園でなく地獄だった」。大阪府八尾市在住の脱北女性、高政美(コジョンミ)さん(49)は、怒りの矛先を帰還事業を支援した在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に向けた。大阪地裁で慰謝料など約千百万円の損害賠償を求めて係争中。「うそで人生を狂わせ、それで許されるのか」 

 高さんの左肩には大きな刺し傷がある。拷問で受けたのではない。「自らの右手ではさみを握り、刺したあと」という。高さんは、2000年11月に中朝国境の鴨緑江を渡って脱北。しかし、中国から日本への渡航に失敗。2003年1月に北朝鮮に強制送還され、その途中に「抗議の自殺」を図った。

 「血が噴き出て、もうろうとしたところまでは覚えている。だけど死ねなかった。留置所に入れられ、殴る蹴るされて、脱北計画について取り調べられた。何度も気絶した」と高さん。「顔かたちは変わってしまい、昔の顔ではない。歯は抜かれて、これは全部、入れ歯」と前歯を指さした。

 肉体的にも精神的にも、極限まで痛めつけられた影響か、眠れない毎日が続く。眠れても、悪夢にうなされる。「でも私はまだ幸せな方。生きて脱北できたのだから」

 訴状によると、高さんは3歳だった1963年に一家で北朝鮮へ。両親は韓国・済州島出身だったが、父親は早世。3人の子どもを抱えて経済的に困窮していた母親が、「北朝鮮に行けば心配なく生活できる。食料は十分あるし、仕事も住宅も与えられる」と繰り返し説得され、帰国を決心した。

 ところが、連れて行かれた北西部の新義州で、母親を待っていたのは朝から深夜までの労働奉仕。兄は「日本に帰りたい」と口にして、精神科病院に収容され、栄養失調と、床は汚物だらけの劣悪な環境に耐え切れずに亡くなった。

 高さんが人民学校に通うようになると「チョッパリ」と日本人の蔑称で呼ばれて差別され、服を脱がされたり、破られたりといじめられた。
(中略)
帰還事業は在日朝鮮人を『労働者』や『金づる』として利用しようとした北朝鮮による誘拐事件。朝鮮総連は虚偽の説明でそれを実行した。まだ、北朝鮮に残っている人がいる。人の命がかかっている問題なんです」と高さん。「裁判は脱北に成功した者の使命。死ぬまで戦います」

 帰還事業とは一体、何だったのか。非政府組織(NGO)「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の幹部で大阪経済大学准教授の山田文明氏は「北朝鮮は労働力を欲し、在日朝鮮人に目を付けた。日本でも在日の問題が顕在化していて、日本政府はそれに応じた、という経緯がある」と話す。

 実際、在日朝鮮人は差別の対象で生活は苦しく、公的援助の受給者も多かった。また、左翼的思想を持ちがちで、東西冷戦下では、半ば厄介払いでもするかのように「在日を追い出そう」という空気があったという。
(中略)
 一方、朝鮮総連はこの裁判について「同じような訴えを棄却した判例がすでにある。訴えは同胞社会と日朝関係に害を与える以外のなにものでもない」とコメントした。

 その裁判は、62年に脱北したソウル在住の男性が01年6月に、朝鮮総連に損害賠償を求めて東京地裁に起こした。だが、脱北してから39年が経過して「損害賠償請求権が10年の時効で消滅している」と棄却、敗訴が確定している。

 だが、高さん側は「日本の在外公館に保護されたのは05年3月で、この提訴では時効は成立しない」との立場だ。

 また、朝鮮総連は在日朝鮮人に帰国を促すと同時に、帰国の準備のために朝鮮語教育などを実施していた。また、日本に残した資産は朝鮮総連が管理、処分していた実態から、高さん側は「帰国者と朝鮮総連の間には何らかの契約があったとみなされる」と主張する。
(中略)
 ただ、この裁判の難しさは、帰国事業が始まった当時、日朝両国の思惑に加え「在日朝鮮人は人道上、北朝鮮に帰すべきだ」という理屈に、多くの政治家や文化人、さらにはメディアまでもが疑問を持たず、帰国者の背中を押した、という事実があることだ。

(以下略。全文は東京新聞紙面でどうぞ)

ソース(東京新聞 9/7付 こちら特報部) http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2009090702000056.html
-- (引用終了) --


昭和34年12月25日 朝日新聞朝刊

 「ばく進する馬」北朝鮮

北朝鮮には戦争の荒廃と貧乏のどん底から立ち上がって、前途に希望を持った喜びが感じられる。
衣食住がどうにか安定し、働けば食えるようになった朝鮮に、他国で苦労している同胞を引き取って、
いっしょに働こうという気持ちが今度の帰還問題の底に流れている。

もう一つ、千里の馬のけん引者はもちろん金日成首相。
三日前、帰還者代表百五十人と向かいあった金首相はちっとも飾りけがなく、
親切な町会長が隣近所の人と笑いながら世間話をしているようだった。

首相はざっくばらんにこういう意味のことをいった。「われわれは以前は奴隷だったが、解放で貧農程度になった。
もっと早く皆さんを迎えたかったが、ああ貧乏ではどうにもならない。しかし皆よく働いて今やっと中農までこぎつけた。
だが富んだ中農ではない。ぜいたくはできない、が、心配するな。住むこと、食うこと、着ることは大丈夫だ。
力を合わせてやろう。もっともっと良くなる」と微笑して話しかける。
この調子で(金日成首相)が工場や農業協同組合にも出かけ何日も一緒にアパートに泊ってくるそうだ。

「金将軍は我々の偉大なダムだ。遅れ、落ちぶれた民族を組織して、たくましい民族エネルギーを蓄えてくれたダムだ」
とある人はこういった。深夜の町で酔っぱらいなど一人もみることができない。
真夜中雪の道を行くのは交代の労働者だ、寒さしのぎに「金日成の歌」を歌いながら工場へ歩いていく。


昭和35年2月26日 朝日新聞朝刊

 「希望者ふえる一方」

帰還希望者がふえたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。
各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、
二度と戻れぬ日本を去って"未知の故国"へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。

ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎ぶりや、完備した受け入れ態勢、目覚ましい復興ぶり、などが報道され、
さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏みきったようだ。




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